烏賊と大根 ~岩手旅~



初めて一人で居酒屋に入った。

これはただそれだけの、なんてことない話だ。

なんてことない話だし、特別なことなんて何も起こらなかった。

劇的でもなければドラマティックでもなく、物語とすら言えない話だ。

 

僕は一つの店の前で足を止めた。

ぶらぶらと歩きながら、最初に見つけた居酒屋がそこだったのだ。

赤い提灯に照らされたのれんをくぐると、カウンターしかない小さな居酒屋だった。魚が焼ける匂いがする。脂がパチパチと爆ぜ、少し炭の香りが混じった香ばしい匂いが鼻を撲つ。

「いらっしゃ!」

「すいません、一人なんですが

「一人ですか。じゃあそこでいいですか?」

と、カウンターの端っこの席に通された。

「おぉ、それじゃあ俺が一個ずれようか。お兄さん待ってな、荷物動かすからよ」

そういうとオジサンは一つ座席をズレてくれた。

 

「お兄さん生?」

「はい、生で!あとシシャモ焼き一つください!」

「はいよ、シシャモねー」

 

「兄ちゃんこれお通しと、サービスの枝豆」

背後から急に声を掛けられてビックリしてしまった。パンチパーマに眼鏡の老人が品を差し出していた。なんとか驚いたことを必死に誤魔化しながらお通しと枝豆受け取りながら、僕はそのパンチパーマ来る強烈な印象で正直怖そうな人だなと思ってしまった。

大将は大将で、とても大柄な人で、少しだけぶっきらぼうに言葉を切るタイプで、都会の距離のある接客に慣れた僕にはやっぱり少し怖いという印象があった。

強いて言うならば、席をずれてくれた隣のオジサンは親切そうだったが、反対に座ってるお兄さんと仲良くしゃべっている。たぶん職場の部下かなにかだろうな。大将も混じって、3人で仲良くしゃべっている。その向こう側には女性と男性邪推するならばそこそこのお偉いさんとキャバクラ嬢といった風に見える。

その隣は職場の同僚だろう。3人の中年の男女が楽しそうに飲んでいる。

こう周りが楽しそうにしゃべっている中、一人だけ沈黙をしなければならない状態というのは、やはり寂しい気持ちはあるにはある。

その寂しさを届いたビールと一緒にごきゅごきゅと喉を鳴らしながら流し込み、お通しの烏賊と大根の煮物に手をつける。

それは安易な行動だったのかもしれない。その一品は思った以上の感動を僕に与えたのだ。絶妙な柔らかさで、味もよく染み込んでいて、まぁ一言で簡単に形容してしまうとしたらそれは美味しかった。

もう少し気持ちの準備をしてから手を付ければよかったと後悔しながらも、ここまで美味しいと予想していなかったからこそ、ここまでの感動を覚えたのだと思えば、まぁ、よかったのかもしれないが。

 

だからこそ、僕はあまり寂しいという気持ちもなく、お酒と料理の味を楽しみながら隣の上司部下と大将の話に耳を傾けていた。

話している内容はどうということはない。店内で映し出されているテレビの話だったり、この辺の近所のことであったり、それこそ他愛ないという言葉が似合うような会話を、僕も隣で『へー』とか心の中で思いながら聞いていたのだ。

 

そんな風にビールの空ジョッキが僕の目の前に二つ並ぶくらいになると、店内には隣の上司部下と僕だけになっていた。

そして、部下の人がお勘定お願いしますというものだから、『あー、ついに店には僕ひとりになるのか。まぁ一人で飲みに来てるわけだしいいのだけれど』などと、心の中でニヒルな自分を気取りながらアジの刺身をついばんでいたのだが、「それじゃあ」と言って、部下の人だけが帰っていく

 

あれ?

 

なんということだろうか。隣の人達は上司部下でもなんでもなく、たまたまこの店で隣あっただけの関係だったのだ。

それがわかった瞬間、孤独にニヒルを演じていた自分のあまりの滑稽さに笑いが込み上げてきた。

孤独などではなく、単純に「会話をする」ということをするかしないかだけを、よくもそこまで美化して格好つけたものだ。

まわりの人はそんな僕の気持ちの中など知るはずもないが、それでも僕は僕自身に対する気恥ずかしさでいっぱいになってしまった。

 

そして、

「僕、今日観光でこっちに来てて

その一言だけを絞り出した。

そこから隣のオジサンも大将もたくさんの話をしてくれた。その土地のことから政治の話から、はたまた僕の地元に関する雑学まで教えてくれるというフルサービスだ。

そんな楽しい酒の席だったが、ひとつだけ重たい話があった。

いや、重たいというと少し違うのかもしれない。

真摯に向き合うべき話とでも言えばいいのだろうか

 

 

「この辺りは内陸だからね、そうでもないかと思うかもしれないけれど、地震の時けっこう大変だったんだよ」

そうカウンターの向こうで、大将はつぶやいた。

そして、カウンターとは反対側の壁に掛かっている船の写真を見ながら、もう七十五になる大将のお父さんも呟いた。

「儂んところはまだよかった。だけど津波で弟の船は持ってかれちまってな。親父の代から漁師やってて、儂も小さい頃はよう手伝いで乗ったもんだが」

「正直ここらへんも被害がなかったってわけじゃないんだ。何かが壊れたりとか、人が死んだりとか、そういうのは確かに少なかったけれど、でも街にできるはずだった工場の計画がなくなったり、もともとあったのが移転したりして、失業者が街に溢れかえってたよ」

そして隣にいたオジサンも続いた。

「私は丁度地震が起きた時ここに居なくて、仙台に出張していたんだ。まさか、自分が仙台に居る時に地震が起こるなんて思っていもいなかったよ」

 

それからは大変だったと話す三人の顔は

 

笑顔だった。

 

それからしばらくすると、閉店の準備がはじまり、僕と隣のオジサンはお会計をして店を出た。

「ご馳走様でした。楽しかったです」

「それはよかった。僕は10年前に一度来た客の顔も覚えてたこともあるからさ。またこっちの方来たらぜひ寄ってよ」

そう笑う大将には、もうなんの怖さもなくなっていた。

 

そして店を出た後、隣にいたオジサンにも一言だけ挨拶を、

「ありがとうございました。お陰で楽しいお酒が飲めました」

と言う僕に、

「いやいやこちらこそお陰で楽しかったです。それでは僕はこっちなもんで」

そう言って闇に溶けるように歩いていく後姿を僕はぼんやりと見ていた。